狩りの思考法(角幡 唯介)
このページについて
この文章は、プラットフォーム「Cosense」の一角をお借りして展開している、プロジェクト進行についての論考集「プロジェクト工学フォーラム」内の連載企画、「価値創造の思考武器」のコンテンツです。
価値とはなにか、価値を生み出すためには、いかなる思考が求められるか、ということを、本の紹介を通じて、解説しています。
https://gyazo.com/4e869a940ffe2e89b661f9e986a810ea
今回の一冊:「狩りの思考法」
私のやりたいのは明確な目的地を定めた到達至上主義的な旅ではなく、狩りの結果次第で行き先や展開が変わる漂白だ。
コロナ以後と未来予測 より
この本のあらまし
本書は、地図を持たずに山に登るとか、地図を持たずに北極圏をうろつくとか、ちょっと素人には想像の及ばないようなことを志す、大変に奇特な冒険家によるエッセイ集である。
本当の意味で生きるとはどういうことか、自由とはどういうことか。それが、本書のテーマであり、著者の冒険遍歴やイヌイットとの交流を通じて熟成されていった思考をのぞきこむことができる。
本書のメッセージはシンプルだ。未来などわからない。あらゆる成果は偶然の賜物である。未来が予測できるという幻想は捨ててしまえばよい。いま、ここ、目の前の現実に生きよ。
これはまさに、プロジェクトにおける野生の思考そのものなのである。
プロジェクトマネジメントとは、計画の技法である。
しかし、プロジェクトの本性とは、徹底的に、反・計画的なのだ。
もちろん、なんの考えもなく、行き当たりばったりで、ただただ刹那的に生きろということではない。
むしろ、己が生きる環境について、己が獲得すべき獲物について、それを仕留めるための方法や道具について、徹底的に、過去の共感から学び、どうすれば確実に生き延びられるかを、自分の頭で考え抜け、というのが、その思考の本質である。
ただし、それを、手前勝手な自分の都合で「計画」化するな、ということだ。
価値創造のために、この本から得たいこと
頭の中が、計画優位になると、現実が見えなくなる。
価値創造の予感が現実に着地しないとしたら、きっとおそらく、この「計画」が、邪魔をしているのだ。
どうなるかわからない、は、
ただちに、
先のことを考える必要はない
にはならない。
先のことを考える、は
ただちに、
思い通りの結果を得る
にはならない。
どないせいちゅうねん、という関西弁が、聞こえてきそうである。しかし、価値創造の実相とは、これ以上でも、以下でもないのだ。
我々に与えられた選択肢は、「そういうものである」ということを、受け入れる、という、一択である。
その過酷さを受け入れ、必死に生きるというこが、生きる者にとっての自由と同義である。祝福とは、そんなギリギリの一瞬で、成果を手にしたときのことである。
大いなる目的のために遠大な計画を立てるのは崇高な趣きがあるが、あんまり背伸びすると足元の小石にもつまずく。
目の前の目標のために経験や知識、身体能力を総動員するのが、プロジェクトの作法である。ただし、そうすれば、必ずうまくいく、ということはない。価値が成就するかどうかは、ナルホイヤである。
話は若干逸れるが、現代美術家である内藤礼のテーマは「祝福されていることに、気付きなさい」ということである。それは、本書のテーマと、深く通底している。さらにちなむと、以下のフレーズ紹介にも若干含まれるが、イヌイットの言葉は、アイヌの言葉に、響きが似ているようである。縄文との繋がりが、きっとあるのだろうと思う。そう考えると、本書の著者の行為は、ある種の里帰りなのかもしれない。
本書の「グッとくるフレーズ」紹介!
●未来は本質的に謎だ。未来を正確に予知することは不可能である。
●であるにもかかわらず、私が今、明日の自分をどう捉えているかといえば、たぶん生きているだろうなあと考えているわけだ。
●私たちは生き物の本能として未来予期を欲している。蓋然性の高い未来予期がえられているときにはじめて、人はその未来予期を今の時間にフィードバックして、不安なく、心を安んじて日々を暮らせるようになる。
●長年探検活動をした結果として、私は、未来予期による仮象ではなく、今、目の前におきている現実に生きる瞬間にこそ、人間の生が動き出す始原があるはずだ、と考えるようになった。
●今日の予定を聞いても「ナルホイヤ」、明日の天気を聞いても「ナルホイヤ」、お父さんは今どこにいるのと訊いても「ナルホイヤ」と、会話のさまざまな局面でナルホイヤが登場してそのたびにいきづまる。 ナルホイヤとは<わからない>という意味の言葉である。
●私にいわせれば、イヌイットのナルホイヤという言葉は、じつは未来を正確に予期することなど人間にはできない、人間は今日の前の現実に身をさらすことでしか生きていくことはできない、との彼らの生の哲学をあらわした言葉である。さらにこれは、彼らのモラルにさえなっている。
●彼らは、ナルホイヤとひと言、宣することで、未来を設計するような思考回路、計画的に物事を遂行することの愚劣さを諭す。ナルホイヤは彼らの道徳であり、よりよく生きるための行動指針である。その証拠に私が計画的に何かをおこなおうとするとき、彼らは私のその計画性をナルホイヤ的言動をもちいて窘めるのである。
●真の現実ー自然といってもいいかもしれないーとは収拾のつかない無秩序な修羅場である。
●地図無し登山で経験したのは、<分け入っても分け入っても青い山>という種田山頭火の俳句そのままだった。
●無駄なく、効率的に直進することがもとめられる計画的到達行動では、そのとき、その場でおこる予期せぬ出来事はきりすてられる傾向があるが、狩猟漂泊ではその時々におきる偶然の出来事が、文字どおりこの世界に存在するための決定的な要件となる。
●ウーマは「イッディ・ニヤコ・アヨッポ (お前は・頭が・悪い)」とひたすら私を罵倒した。厳寒の地で生き抜いてきた彼らにとって死につながる最も致命的な人格的欠陥は、肉体的に弱いことではなく、知恵や創意工夫を働かせないことである。それを言表する言葉が「ニヤコ・アヨッポ(頭が悪い)」であり、これはイヌイットにとって相手を最大級に貶めるときにつかう言葉だ。
●ウーマが「ニヤコ・アヨッポ」と指摘するのは、双眼鏡によるチェックを怠ったことそのこと自体ではなく、むしろ過去の<計画>に安住し<今目の前>の現在を無視した、このような私の思考のあり方、世界との向きあい方なのである。
●経験の蓄積がなく、単に鉄砲をかついで流浪して獲物をしとめてもそれは単なる偶然で、一回こっきりの出来事にすぎず、その偶然のなかで生きたことにはならない。
●過去のプロセスの帰結として今という瞬間があり、その今の次なる展開として未来が開ける。このような自然な時間の流れが、その土地が提供する獲物との出会いという全一瞬に凝結する。そのような狩りに成功したとき、人はこの土地により生かされているとの調和の感覚を手にすることになる。
●あそこに行けば麝香牛がいるかもしれない、と期待し、私が例の餌場をめざしたとき、麝香牛はシュレーディンガーの猫のように<そこにいるのだけれども、同時にいない>という重ねあわせの状態にあったのではないか。
●目の前の生きた現実にしたがったほうがなにごとも効率的であるが、それを生かすには経験と実力と知識が必要である。そういうエスキモー流の旅のスタイルに私は憧れる。そしていつかはこの域に達したいと思っている。
終わりに
私自身の体験から言うと、大東京のど真ん中だって、ナルホイヤである。
いつ、どこで、どんな仕事と巡り合うかなんて、ナルホイヤなのだ。
その現実は、不安をもたらす。不安に負けると、確立されたシステムに逃げ込みたくなる。しかし、秩序化された安全安心こそが、修羅の国であり、牢獄なのだ。
北極圏との違いは、仕事と食べることの、距離だけでしかない。
都会の中で生きていると、仕事も価値も、とんでもなく抽象化されている。だから、獲物をドスンと仕留めて生食する、という生活スタイルには、とても深い憧れを覚える。
だがもちろん、あちらにはあちらの苦労がある。こちらにはこちらの苦労がある。それもまた現実である。
ちなみに、物理学者があくなき情熱をかけて求めるのは、究極の秩序である。
この世の実相は、秩序なのか、反・秩序なのか。いったいぜんたい、どういうことなのだろう。
この文章の著者について